日時     KIN 54  自己存在の月(22)12:18:57 (2006年11月8日)

執着 と 怒り   

心の作用

執着とは、必要な条件を整えようとする。

そういう心の作用である。

怒りとは、逆境を取り除きたい。

という心の作用である。

たとえば、怒りが、「逆境を取り除きたい」ということであれば、

それはいいことではないか、と思うが、

怒りや憎悪は、

対象物の中に、魅力がないものをみつけ、嫌悪感をもってしまう。

その嫌悪の90%は、自分の心の働きによって生み出してしまっている。

心の作用によって、誇張して捉えてしまう。

心の間違いである。

あるがままに見ることを妨げてしまっている。

「無明」の状態である。

執着は、「必要な条件を整えよう」とすることであれば、

それはいいことではないか、と思うが、

嫌悪と同じように、

すばらしいものに対して、執着してしまうのは、

その執着は、自分の心の働きによって生み出してしまっている。

誇張してとらえてしまうから、あるがままに見ることを

心が妨げているから、

「無明」なのである。

だから、今回のジェ・ツオンカパ『修行僧の三要素』において、

輪廻のさまざまな苦しみ、という言い方と同時に、

輪廻の快楽に執着せず、

輪廻の海での快楽の果を求める心を鎮める、

輪廻の栄華を願う心を一瞬たりとも起こすことなく、

という、日常的にはあまり使わない言い回しが出てくる。

「欲望、邪見、無知」など煩悩の四つの激流に押し流されて、

絶ちがたい業にきつく束縛され、

我執という鉄の檻に閉じ込められて

無明の厚い暗闇に覆い尽くされている

必要な条件を整えようとする。

逆境を取り除きたい。

それは、ニュートラルなものである。

三次元的には、必要なことだといえる。

ただ、それが、心の作用によって誇張されたときに、

執着になり、怒りになる。

誇張して、「無明」の状態になる。

また、

怒りは、免疫機能を破壊する。

感情について、仏教のテキストが詳しい。

幸せ、苦しみ、苦楽は、因があって、心が静まっていないから、生まれる。

方法論は、鎮める。心は、何なのか?

ダライラマ法王の 法話

ジェ・ツォンカパ「修行道の三要素」から